投影

バルセロナを一度離れて、ポルトへ向かいます。
◇カサ・ダ・ムジカ(設計:レム・コールハース

この旅のもう一つの目的がこのカサ・ダ・ムジカ。

既存の街区と異なり、周辺に空地を残して敷地の中央に降り立ったかのような建築。敷地の地形はこの建築が降り立ったときの衝撃で大きく湾曲している。



とにかく良かった。これが感想。中心にコンサートホールを配置し、その周囲を立体化した街路が取り囲むというあまりに単純なコンセプトからこうも心躍る空間が出来上がるとは。つまりは、コンセプトの敷地への投影の仕方が秀逸なのだ。だから、窓の配置や壁材、ガラスの波打ち具合まで、すべての要素が説明可能であるのになおかつ魅力的な空間が生き残る。構成する要素が説明可能なのに、その結果想定を超えた空間が出来上がるなんて建築の理想型としか思えない。

この旅で最も考えさせられた建築でした。

美の感覚

バルセロナ現代美術館(設計:リチャード・マイヤー

白い。しかし、この敷地に建つ必要はない。

バルセロナ・パヴィリオン(設計:ミース・ファン・デル・ローエ

ついに訪れた、近代建築学の中で最重要な建築の一つ。

グリッドの構成から柱の落とし方、庇の出し方まで実に美しい。

とにかく絵になる建築。

しかし、見ているうちに、これは僕自身の目指すべき美しさではないと思った。なんというか、これは建築として美しすぎるのだ。これはあくまで個人的感想。

繊細にして

帰国しました。これから何度かにわけて、旅の記録をレポートします。何回続くかわかりません。気が済むまで続けます。とりあえず、今回はガウディ縛り。

サグラダ・ファミリア(設計:アントニ・ガウディ

旅の最大の目的の一つ。まずは夜の姿を拝見。神々しい。

昼の「御生誕の正面」。

中に入ります。工事の足場。サグラダ・ファミリア本体の物量と並ぶと細い足場の軽快さが美しい。

西側の「御受難の正面」。個人的にはこっちの表現の方が好き。

西側内部。樹木の形態のアルゴリズムから成る柱を見ていると、この建築がなんとも繊細に思えてくる。東側ファサードアントニオ・ガウディの生涯から喚起される圧倒的な威圧感やおどろおどろしさといった印象は、少なくともこの柱から構成される空間からは感じられない。むしろ繊細さとその繊細さ故に生じる建築家としての葛藤のようなものに支配されるような感覚にさえ襲われる。

カサ・ミラ(設計:アントニ・ガウディ

サグラダ・ファミリアで一度ガウディという建築家の繊細さを感じてしまうと、写真で見ていたときに抱いた印象とはまったく異なる感覚でこの建築を見上げることが出来る。

「ラ・ペドレラ(石切り場)」という渾名から連想される荒々しさの中にも、石材という素材に対する真摯な取り組みがこの建築からは垣間見ることが出来る。それは、現代のフランク・O・ゲーリーザハ・ハディドの建築からは感じることの出来ない感覚である。


屋上はぐりんぐりんの100倍楽しい。

グエル公園(設計:アントニ・ガウディ

僕の中でのガウディ最大の不思議がこの公園。

ガウディは一体どのような心境でこの公園を設計したのか。一部建築家が主に晩年に郊外の理想郷へ向かうのと同じ動機なのか、異なるのか。ガウディのほかの作品を見ていると、僕には彼がそう簡単に都市に背を向けられるとは思えない。事実、彼はこの公園を設計する傍ら、カサ・ミラカサ・バトリョといった集合住宅をバルセロナの中心部に設計している。


人体寸法から断面が決められたこの有名なタイルのベンチに座って眼下に広がるバルセロナ市街を見ていると、「都市に住む」とは一体何なのかという半永久的な命題を突きつけられる気がする。

今回は時間の都合上、カサ・バトリョファサードは見た)やグエル邸、コロニア・グエル教会堂などは見られなかった。また機会があれば、是非とも見に行きたい。それにしても、建築を通じてこんなにも生身の建築家と対峙できる建築はなかなかない、というかほとんど皆無だろうな。

スタンス

修論発表が終わりました。質疑応答での副査の先生の最初の質問に対する答えの方向性を若干間違えたため、その後の質疑の時間がドツボにはまってしまったのが多少残念。打ち上げ時に研究室の先生からそのことを突かれる。まぁこれもまたひとつの勉強。
なにはともあれ当日は非常に多くの人に発表を聞きに来ていただき、ありがとうございました。発表についての感想・批評があれば是非今度聞かせてください。特に意匠系の人たちからの意見が聞きたい。

というわけで、3年間の環境系としての研究期間はこれをもって(まだいろいろと作業は続きますが)一区切り。春からは再び設計メインの生活になります。打ち上げ2次会での先輩M氏との話から悶々と頭の中で考え続けていることを、まったく整理できていないけれどここに記しておきたいと思います。不特定多数の人が見るこの場所にこのような状態の考えを記すことは本来はふさわしくないのかもしれないけれど、読みにくい文章になることをお許しください。
「これからどういうスタンスで設計をしていくのか」
この問いに対する答えが僕の中でまったく整理がされていない。もちろんこんな問いの答えがすでに完璧に用意されていたら、それこそ胡散臭い気もするけれど。ただ僕の設計の大きなバックボーンとして「環境」という要素が入ってくるのは間違いないと思っている。別に「環境のことを考えなきゃいけない!」という強迫観念を持つ必要もないし持つつもりもない。そもそも構造や構法と同じように「環境は建築のコンセプトにはならない」と思っている。けれども、僕の思考はきっとそこから離れることは出来ないのだろうと思うし、それくらいの密度で3年間の研究をやってきたと思っている。では、環境の要素とどう付き合うのがいいのだろう。一方で、僕は前にここにも書いたように建築家は広義でのカタチを変えようとしなければいけないとも思っている。となると、考えられるスタンスとしては「環境からカタチを変える」スタンスと「変えたカタチを環境が補完する」スタンスとの2種類。ちなみに断っておくと、後者は別に環境を付加的要素として捉えているのではなく、カタチが変わったからこそ挑戦できる環境があるのではないかと考えてのスタンスである。そういう意味で考えると実はこの2つのスタンスは意外とほぼ同義なのかもしれない。正直、今のところどちらにも可能性を感じているし、もちろん今の段階でどちらかに絞り込むつもりも毛頭ないのだけれど、あまりに発表の日以降頭の中が堂々巡りな気がしているのでひとまず今の時点での思考を記しておきます。将来僕自身がこの文章を振り返るためにも。
そもそも「設計のスタンス」って何なんだ?このあたりはいろんな人と継続的に話がしたいですね。

燃える


朝から衝撃的だったので、ひとことコメントします。
TVCCが全焼しました。そう、あの有名なCCTVの横に建っている、CCTV同様レム・コールハース設計のビル。
建築界としてもそうだろうけど、個人としてもかなりショックです。4年ほど前、a+uCCTVとTVCCの特集が組まれ、その建築の構築のされ方がまったく理解できず、そんな感覚は後にも先にもないことだったので今でも僕の中でかなりのウェイトを占めている建築。この2つが完成すれば、きっと超高層ビルは新たなステージにのぼれるんじゃないかと期待していたし、個人的にも早く実物を体感したいと思っていました。
ちゃんと再建されるのだろうか。して欲しいけれど、この世界不況の中でどうなんだろう。
唯一の救いはCCTVには被害が及ばなかったことかな。とりあえず、レムのコメントが聞きたい。


[追記 2009-02-12]
Dezeenのサイトに鎮火後のTVCCの写真がアップされてました。
http://www.dezeen.com/2009/02/10/television-cultural-centre-by-oma/
完全に墓標だな。けれど、これだけボロボロになってもなおかつある種のメッセージ性を有することのできる超高層も捨てたモンじゃないなと不謹慎にも思ってしまう。にしても、細部の破壊具合を見ると倒壊を免れたのが奇跡のよう。

表象と存在

修論の合間に『自然な建築』(隈研吾:著 岩波新書 2008)を読んだ。本文がやや主観的に書かれすぎているのが気になったが、序論にあった次の文章には大変共感した。
「場所に根を生やし、場所と接続されるためには、建築を表象としてではなく、存在として、捉え直さなければならない。」
僕たちの世代は、「白」の世代である。いや、正確に言うと「白」を引きずっている世代である。だから、どんなコンペにもたくさんの白い案が並び、どれもホワイトアウトしかかった模型写真にひょろりとした人型が描かれている。そしてその中のいくつかの案が入選していく。この風潮をつくったのは、間違いなくSANAAだ。彼らのつくる、まるで白模型が敷地にポンと置かれたかのような建築に、僕たちを含む彼らより下の世代は魅せられ真似しようと試みた。
しかし、この風潮にはいささか疑問を感じる。なぜならSANAAの「白」は「モノ」としての「白」であって、「コト」としての「白」ではないからだ。先に引用した文章の言葉を借りれば、「存在」としての「白」であって「表象」としての「白」ではないのである。4年ほど前、西沢立衛氏に「SANAAの建築は、敷地に1:1の模型がそのまま置かれてるみたいですね」と話しかけたとき、彼はきっぱりと「それは違う」と答えた。「僕たちのつくっているのは建築というモノであって、決して模型としての建築ではない」と。今ならこの言葉の真意がわかる気がする。
「モノではなくコトを設計したい」
こういうことをいう人がよくいる。この言葉も、僕は違和感を感じる。「モノを設計するきっかけとしてコトを設計する」なら理解できる。しかし、「モノ」から逃げ「コト」だけを設計したいという欲望は間違っている。「モノ」に向き合わない建築家は失格だ。
そもそも、僕たちの世代は「白」をひきずるにはその創始者たちから年が離れすぎている。上辺だけをひきずり「表象」だけを真似て、ただきれいな建築を追い求めるのは危険すぎる。僕たちの世代は、圧倒的な物量を有する建築に対してもっと真摯に、そしてストイックに向き合わなければならない。